"同級生の投稿"カテゴリーの記事一覧
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2022年12月30日 【Ⅿ-民子】
WITHコロナへの政策変換で『全国旅行支援』、「使わなきゃ損」とばかりに、たっぷりつかわせてもらいました。1番安いホテルは『ホテルタビノス京都』。
昨年オープンしたばかりのホテル。40パーセント割引で3,060円 払いましたが『3,000円のお買い物クーポン券』をもらったので、実質60円の手出しでした。しかも1人でも、2人でも同じ料金。広い広い大きなダブルベッドに、一人寝ました。しかも、しかも、朝食付きと言って自分で勝手に食べて....飲み物は、コーヒー・お茶・いろんなスープ....飲み放題。
世界中を旅する人の『巣』になるようにと、つけられた名前。とっても静かな『めっけもん』で、私は大満足!たまたま『タブレット』で探したホテル。もし、泊まるならこのホテル。『五条大橋』の真ん前、『牛若丸と弁慶』の銅像がありました。京都駅から歩いて行けます。なんだか『ホテルタビノス京都』の宣伝みたいになってしまいました。
ロビーでは、いろんな国の人達が静かに、コーヒーを飲みながら本を読んだり、地図を広げたりしていましたよ~!
もっと面白い所は、大分津久見港から渡った『保戸島(ほとじま)』....この話は次回へ!今日はこれにて....ごきげんよう。(vol.1602)【Mー民子】
【写真掲載のお詫び】今回は、ホテル内の優雅な施設や大きくて綺麗な部屋、友人との2ショットなど、9枚の写真を『LINE』で送ってくれました。しかし、ホテル内の施設や部屋、及び本人以外の顔写真等は、それぞれ(ホテルや友人の)許可なしには掲載できませんので4枚だけにしました。
ご了承ください。写真上でクリックすると拡大します。【管理人:Kー正人】
尚、このホテルに興味のある方は下記URLをクリックしてHPをご覧ください。
HOTEL TAVINOS KYOTO(ホテルタビノス 京都)
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さて、今日は<<近況>>の続きです。
と言っても前回書いてすぐ書き始めましたが、やっと今日の投稿です。
高齢になって動きが実に鈍くなりました。以前 "民ちゃん" が書いてくれた『メダカの学校』の話はとても楽しく読ませていただきました。先に書いたスーパーに行く畔道に小さな水路(溝)が通っている。私が此処に住んで50年程になる。その時はすでにチョロチョロ農業用水として流れていた。子供たちはこの溝で『メダカ』や『ドジョウ』を捕まえて遊んだものだ。子育てには長閑(のどか)で良い環境の時代であった。数年前に水路の改修工事が行われてコンクリートの川底になった。当然、土や草は一掃された。結果は言うまでもない『メダカ』や何種類かの生き物は消滅した。サラサラ流れる水路を覗くことは無くなった。しかし1年2年経つうちに少しづつ川底に土が溜まり始めた。そして小さな『シジミ』の殻が見えるようになった....『シジミ』が再生した証拠だ。小さな水草も生え始めた。金魚鉢に入れているアレである。1年ごとに少しずつ増えてきた。気にも留めなかったが、テレビ番組『池の水全部抜く』というのを見た。どこかのお城の堀だったか、水路だったか、この水草が大繁殖して水面も見えなくなり、長い根がガッツリはびこって水は淀み光が遮られ、生息する魚にも悪影響が出ているという。水草は大量の水を含んでいる。その上長い根っこである。撤去作業は重労働である。この草は本当に繁殖力が強い。毎年その帯が長くなっている。「手で採れる小さなうちに除去した方がいいな。いまなら私でも取れるかも知れない」と思った。ところがよく見ると ”民ちゃん” が言っていた、『メダカ』の子ども『針子』が沢山泳いでいるではないか....更によく見ると『ドジョウ』や『グッピー』のような『メダカ』も1匹、川底には『シジミの殻』や『ホタルの餌』になる『カワニナの巻貝』なども沢山。「メダカが帰ってきた」水草が棲みかになっていたんだと気がついた。「ヤバイ ヤバイ 『メダカ』やその他の生物にとって水草は繁殖する棲み処なのだ。それを抜くなんてとんでもない」と反省した。ところが私の他にも覗き込んでいる人が何人か出てきた。
そのうち網を持ってメダカを救っている。
少々獲ったところでいなくなる筈はないと高をくくっていたが、最近メダカの姿を見なくなった。まさか獲り尽くした訳でもあるまい....寂しい気がしたが水草がある限り、繁殖力の強い『メダカ』は必ず復活するだろうと期待している。【H・Y】 -
先日テレビで『立冬』を過ぎると『秋晴』とは言わないで『小春日和』と言うそうだ、と天気予報士のお兄さんが言っていた。時には近況を書いてみたいと思い立った。
2年程前、家から100メートル足らずの目の前にスーパーマーケットが出来た。品揃いも充実して地元では中堅の店である。高齢者には歩いて行けるスーパーは有難い。以前は誰も通らない静かな団地だったが、開店以来スーパーに行く人が家の前を通るようになった....と言っても一日数えるくらいの人数である。手を繋いで歩く老夫婦や、奥様が先で後にご主人が付いて歩く人、自転車を押しながら歩くご婦人など、それぞれのスタイルである。
先日、幼児連れの2~3人のママさんが通った。
ママ達は自分達の話に夢中のようにも見えるが、子供たちの姿を目で追っている。子供たちはちっともジッとしていない。
あっちに行ったり、こっちに来たり、走ったり、追いかけっこしたり....。突然ヒステリックに、慌てたママの声が子供たちを追いかけて行った。子供も元気だがそれを追いかけるママも若くて元気がいい。私たちも50年前は若かったし走ることも出来た。
今も昔も変わらない子育ての風景が微笑ましい。今は歩くのが精いっぱい、走るなんてとんでもない。
せめて『サッ!サツ!』と若々しく歩きたいと心がける毎日である。
私は心の中で呟く....「若い皆さん気づいていないだろうけどね、人生は短いわよ。あっと言う間に私みたいなおばあちゃんになるんだから、今の貴重なひと時を大事にしてね」と....。何気ない日常のひとコマだがこれがどれほど大切でかけがえのないものか、私たちはよ~く知っている。平和な日本がずっと続きます様に....青い空を見上げながら願う事だった。【H・Y】【写真】投稿記事にマッチする写真がないので、早朝散歩で見かける農村の ”のどかな風景” 写真で代用した。『天高く馬肥ゆる秋』....空気も澄み切っていて何だか『三文の得』をしたような気分になる。
写真上でクリックすると2段階で拡大できる。【2022.11.07. 07:05撮影】(vol.1597)【Kー正人】 -
あなたが産まれ育った『湯之元』集落の記事、興味深く読ませて戴きました。そして遠い昔に想いを馳せました。
50数年前~~
大学を卒業し、赴任したのが高千穂の地(高千穂の峰ではなく高千穂峡)。今は高千穂町になっていますが、当時は上野村(かみのむら)でした。野尻よりずっとずっと山の中。赴任先は~~
延岡から日之影~高千穂~上野~高森へとバスが通っていたので僻地にはなっていませんでした。
びっくりしたのは家庭訪問~~
一軒一軒、児童の家を回るのですが、もちろん車は持っていません。子供達と歩いて。
「あなたの家はどこら辺❓」と 尋ねると、「あの山の向こう側」だって!!
こんな遠くから毎日、毎日。重いランドセルを背負って学校へやってくる子に、「宿題忘れてた」とか「宿題やってない」とか言って叱っていた新米先生の私。なんだか申し訳なく思ったものです。
Kー正人さん、あなたも....こんな所だったのですね〜。話を戻しますが『湯之元』だから温泉♨️があるのですか♨️❓【質問に答えて~~】
ご質問の『湯之元』という集落名は、『岩瀬川』沿いに『東柿川内』という集落があります。その集落に『柿川内温泉』という『温泉(冷泉)』が、湧水していて『湯治場』となっていました。その『湯治場』には『6畳』ぐらいの部屋が7~8室あり、自炊をしながらの湯治客がほぼ満室の状態で生活していました。
その『柿川内温泉』の冷泉が湧き出る、渓谷(崖)の上に集落があったので『湯之元』となったようです。小さい頃、親に連れられて急勾配の『けもの道』を20~30分歩いて、月1回ほどこの温泉に行きました。【写真】①高千穂峡入口の車道から撮影(2008.04撮影)
②上野高森地区の航空写真(グーグルマップから転用)
写真上でクリックすると拡大します。(vol.1573)【Kー正人】
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皆様、元気にお過ごしでしょうか?秋晴れのとても清々しい一日の始まりです。コロナもだんだん減ってきました。このまま、終息できますように....。さて、最近の楽しみは『民ちゃんの ”メダカちゃん便り”』を見る事です。私は月3回 近くの公民館に行きます。
その公民館の玄関前にメダカの水槽が4個置いてあります。私は一寸足を止めて覗く程度です。公民館の管理人さんが「可愛いでしょ? 欲しかったらどうぞ持ってって....」と言われますが、飼う気の全くない私は「見てるだけで可愛いですねぇ」と言葉を返すだけなので、私に飼う気がないと察したようです。
ところがブログを読んで以来、”針”のような『チッチャナメダカの赤ちゃん』がいると「あ、これが針子だ~」と、見る目が一寸違ってきました。針子が『ホテイアオイ』の間をチラチラ泳いでいます。水槽の壁には巻貝がいっぱいくっついています。先日、久し振りに掛かってきた同級生からの電話でツイツイ長話しに....色々、話してメダカの話をすると「ブログのメダカの話面白そうだなぁ~ パソコンを切っていたけど 又繋ごうかな」と言っていました。きっと『メダカ癒しの会の”輪”』が広がったのではないでしょうか。それにしても、こんなにも詳しく、楽しく観察できたものだと敬服です。これからも楽しみにしています。.....と、ここまで書いてイザ投稿しようとしたところ「今回で終わり」ですか?。勝手にいつまでも続くと思っていましたが、終わると寂しいですね。でも『又書きます』とありますので、続編を楽しみにしております。この歳になると「刺激が欲しい」と節に思う今日この頃です。【H・靖子】
【写真】記事にマッチした写真がありませんので、昨日、掲載したⅯ-民子さんの写真の一部をトリミングして、拡大しました。【ブログ管理人】(vol.1558)
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長い人生の中には思いもつかない出来事が、年に何回も重なる時がある。それが平成28年だった。その年の2月、親戚の手伝いに帰省した。3~4月にかけて小学校に入学する、孫の面倒を見るために大阪の息子の家に滞在した。5月には再び親戚の手伝いに帰省することになった。今日はその時お世話になった友達の話を......
何が有難いと言ってこの時ほど友達の有難さに救われたことはない。その時、私は親戚の手伝いをする毎日だった。年齢の事もあるが疲れが出ていた。
この頃『紀州同窓会』を『N・行雄さん』が、熱心に企画してくれて準備が進められていた。勿論、私も紀州人として『楽しい旅』にしなければと言う思いは強かった。しかし、今迄体験したことのない多忙な毎日の中で、旅行の段取りを手伝う余裕はなかった。病気療養中の『Y・守夫さん』からも旅行計画の進捗状況を教えてほしいと、メールが入ったりしたが、どうすることも出来ず『N・行雄さん』に全てをお任せする結果となった。
そんな毎日のある日、5人の級友たちが「温泉に行こう」と誘ってくれた.....『 M・弘子ちゃん』『M・美枝子ちゃん』『I・知子ちゃん』『I・利津子ちゃん』『H・美代子ちゃん』たちである。友の誘いに二つ返事で快諾して心待ちにした。
連れて行ってくれたのは『人吉の温泉』と『曾木の滝』だった。丁度そのころ私は疲れがピークに達していたが、皆との出会いを楽しみにその日を待った。当日、皆が手作りのおかずを作ってくれていた。優しい味の煮物や卵焼き、胡瓜の酢の物等々、美味しい昼食と他愛のない話に花が咲いた。胡瓜の酢の物は少し塩味が効いていた。
「塩壺をヒックい返えっせよ 塩辛れよー」と言ったのは誰だったっけ.....。「なんとうまい表現」「なんとうまい言い訳」未だにその一言が頭に残って、思い出すたびに皆の笑顔が浮かぶ。良い温泉に入り、貸し切り状態で『歩き湯』をしたりして、ユックリ浸かった。友達との語らいは、なぜもこうリラックスできるのだろう。
今迄の疲れがすう~~っと抜けていく気がした。その時の事を思い出すと砂漠にオアシスのようで、心身の静養は確実に私を生き返らせてくれた......。
有難かった。本当に皆の気持ちが嬉しかったし、仲間の有難さが身に沁みた。温泉の後『曾木の滝公園』に連れて行ってくれた。始めて見る公園は広々と新緑が輝いていた。何時間でも居られるようなゆったりとした素晴らしい所だった。皆の暖かい心に触れて、私は完全に復活して残りの手伝いを全うしたのだった。友達の気持ちに救われた事は忘れられない。嗚呼有難きかな友達である。
写真はその時に撮影したものである【H・靖子】(vol.1518) -
名古屋同窓会は海辺の景色の良いホテルだった。名古屋在住の皆さんが盛大に同窓会を盛りあげてくれた。何もかも忘れて皆と会えたことが嬉しかった。昔話は尽きることなく夜遅くまで語らったのだった。翌朝、女子は朝風呂を楽しんだ。まさに身も心も日常から解放され「こんなにも楽しい事があるだろうか」と思うほどで、ひとこと一言に笑いがこぼれた。笑い皴を気にも留めないで10歳も20歳も若返った気分である。私たちは1番風呂に入った。お風呂は海に面して展望が開けていた。よくみると早朝の海で作業している人がいる。棒が立っているから何かの養殖かも知れないが遠くて分からない。突然のノジー弁(野尻弁)にノジー女子たちは間髪を入れずに「ドッ!!」と笑いが起きた。「ゴトッ起きーち何十年ぶりの言葉じゃろかい」ハハハハハ「ゴトッ起―」「ゴトッ起―」朝の湯舟は「ゴトッ 起きー」の言葉に笑い声の大合唱となった。田鶴(N・田鶴子)ちゃんのユーモラスな一言は、吉本新喜劇もかなわないと思った。皆ニコニコのご一行は『えびせんべいの里』という工場兼売店にも立ち寄った。物凄く大きなお店でエビせんべいが山ほど積み上げられていた。種類も圧倒される。勿論買い物し放題である。
エビせんべいの市場で盛り上げてくれたのはここでも、”田鶴ちゃん" だった。抱えきれないほどの土産の山「どげんして持つ帰えっとね」皆が取り囲んで笑いながら心配した「どげんすかいね」「どげんかなっとだい」とケロッとして、答える "田鶴ちゃん" に「まこち~ドゲンすっとじゃろかい~」 と皆笑い転げたのだった。"田鶴ちゃん" のいう通りドゲンかなったみたいで、肝っ玉カアチャン "田鶴ちゃん" らしいエピソードである。名古屋の同窓生のお陰で私たちは大いに楽しませていただいた。皆楽しい思い出ができた。皆同窓生の旅を満喫して帰路に就いたのだったが、幹事をしてくれた『K・正人』さんのお母様が亡くなられていたことを後日知った。何ごともない様に振舞っていた『K・正人』さんの胸中はいかばかりだっただろう。皆を見送った翌日告別式だったとか.....そのことを知った皆は言葉が無かった。そんなこんなで平成19年は過ぎたのだった。【H・靖子】(vol.1517)【写真】1・2枚目:名古屋同窓会会場となった内海海水浴場に隣接する『ホテル松濤』と、海水浴場の海岸からのホテルの全貌。3枚目:ホテルから見た文中に出てくる話題の海岸。問題の『棒』は海苔養殖用で海苔粗朶(のりそだ)と呼ばれるもの。この時期は『棒』を支柱にして海面に網を張って『海苔の種』の植え付け作業をしていた。(2007.11.18:H・靖子さん撮影) -
平成19年は忘れられない年である。故郷の病院にM・民ちゃん K・洋子ちゃん そして私3人の母が偶然に同じ病院に入院していた。私は母の看病のため帰省していた。3人ともY・正義先生が恩師である。あるとき「Y・正義先生の家に行こう」と言う事になった。小林まで来たとき「Y・哲幸さんに電話してみるわ」と民ちゃん.....電話するとなんとすぐ近くにいると言うことで、直ぐに合流して先生の家に向かった。先生の家は市街地から暫く奥に入ったところにあり、杉林の中にあって別荘のような立派な家である。真夏でも『えびの高原』のような涼しさだとか....菜園や茶まで植えられていた。庭には、大きな庭石が『で~ん』と居座っていた。この石はも少し動かしたかったけどドゲンしてん、コゲンしてんビクッとも動かんで「この石はここがよかとじゃろ」と言う事になり「此処に置いてくんやっせ」 と造園師の人に頼んだとか。庭には、薄紫の花が一面に咲いていた。先生ご夫婦は突然の私たちを快く迎えて下さりもてなして下さった。この時の写真には今より若い皆が、先生ご夫婦を囲んで写っている。その年の11月、名古屋で同窓会が開かれるということで、K・洋子ちゃんと私は『出席する』ことにしていた。しかし11月初めにK・洋子ちゃんのお母さん、そして程なくして私の母が天寿を全うした。私は『こんな時に同窓会に出席してよいものだろうか?』.....とためらったが、実家の者も「気にせんでいいが ちゃんと看病もしてくれたんだから 同窓会に行けば良かがねぇ」と背中を押してくれたのだった。【H・靖子】(vol.1516)【写真】1枚目:名古屋同窓会の『しおり』 2枚目:野尻の幻想的な雲海(H・靖子さん撮影)。 -
ブログの原点は『還暦同窓会』であったと思う。この同窓会で一気に仲間意識が高まった。中学校卒業以来45年ぶりの再会は興奮したし、45年の空白は瞬く間に埋まって行くのが不思議な気がした。幹事長『Yー哲幸』さんの挨拶が絶妙だった.....「特別出世した者もなく 特別金持ちになった者もいない みんな 同じ仲間である」と、ユーモアたっぷりの挨拶に大爆笑が起こった。そして中学校時代にタイムスリップしたのだった。ただ思春期の真っ只中だった中学生の頃は、男子も女子もお互いに話なんて恥ずかしくて出来なかった。しかし45年と言う長い年月は、すっかり皆を饒舌に成長させていて昔話に花が咲いた。三味線などの催しや恩師の参加なども『20日会』の人達が盛り上げてくれた。あれよあれよ言う間に時間は過ぎて呆気なく終わってしまった。同窓会の余韻はそれから皆の心に優しく残ったに違いない。翌年平成19年1月19日に『同窓生の絆を深めるため』のツールとして『Kー正人』さんが、ブログを立上げてくれた。このブログは『同級生同士の ”近況報告の場” として運用する....』という目的でスタートした。
その後『Yー守男』さんが名付けてくれた、サブタイトル『19の春』の根拠については、私の頭に鮮明に残っている。この『19の春』とは、ブログが『平成19年の春』から始まった.....と言う意味であった。しかし、それだけ聞くと大人になりかけのまだ世間を知らない『怖いもの知らず』の初々しくて、清純で青春真っ盛りの時期と捉えられた。平成19年の春発刊の年が完璧に記憶に残ったのは嬉しい。
パソコンの操作をかじりかけていた私にとっては、楽しみが一つ増えたのだった。そして『Kー秀之』さんのタイ・プーケット便りは面白く読ませていただいた。知らない世界を知る楽しみがあった。北海道の旅を満喫した『Yー哲幸』さんの「北海道旅行は ひりもひりかった」の名言もしっかり頭に残っている。【H-靖子】(vol.1514)
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平成18年の還暦同窓会が、つい先日だったような気がします。その翌年、平成19年1月19日ブログが発足しました。来月一杯でブログが終了する前にブログ管理者の『Kさん』に心からの感謝を申し上げたいと思います。第1号の藁ぶき屋根の写真と共に発行された記事は今でも鮮明に覚えています。==戦後まもなく生まれた私たちの環境は食べる物もなく....==という書き出しで、苦しい世の中であった頃の様子がすらすらと書かれていました。「なんと文章の上手い人だろう」と思いました。以来15年にわたり発行部数は1500枚を超えました。体調も万全ではないとブログにありました。年を取ると皆一つや二つ気になる病気はあるものですが、それにめげず頑張って下さったことに敬服いたします。
ブログのお陰で故郷を離れた私には同窓生同士の絆が深まり、電話やメールはもとより旅行などもしました。良い思い出を作れたのはブログのお陰でした。本当に長い間楽しませていただきました。心から「ありがとうございました」.....どうぞこれからも体調管理に気を付けられて、末永くお健やかに過ごされますようにご健康と御多幸をお祈りいたします。残されたひと月余りですが、最後までしっかり楽しませて頂きます。【匿名希望】(vol.1513) -
雪虫が飛ぶ季節になった。今年の雪虫はいつもより小さい気がする。日脚が短くなり寒く感じる頃になると、何処からともなく白い虫がフワフワ飛んでくる。幼い頃、この虫を見つけては「一寸法師 一寸法師」と言いながら追いかけていた。動きが遅いので目の前に来る『一寸法師』なる白い虫を優しく手で救うと簡単に手の中に収まった。捕らわれた事に気づかない悠長な虫で手のひらで暫くジッとしている。まるで休んでいるみたいだ。気が済めば羽根をおもむろに広げるとスぅッと飛んでいくが、動きは緩やかでなんとも自由で可愛い虫である。体長3~4ミリで、体の下半分は白い綿のような毛で覆われている。ふわり飛んでいる虫は雪のように見えなくもないのが『雪虫』の由縁だろう。私はこの虫を見ると郷愁を感じて好きなのだ。京都の観光地でこの『雪虫』に出会った事がある。
周りの人たちに 「雪虫が飛んでいますよ この季節しか見られませんよ」と教えてあげたかったがやめた。周りの人たちは紅葉に見とれて「あ、虫が....」とつぶやく人は一人もなかったからである。この時期2~3回見るといつの間にか消えてしまう。まもなく寒い冬がくると言う『冬告げ虫』である。井上靖の小説に『しろばんば』と言うのがある。
定かではないが『子供たちが 「しろばんば しろばんば」と言いながら笹を振り回しながら 白い虫を追いかけていた......』というような出だしの小説だったと思う。幼いころの寂しい少年時代の自叙伝だが、『しろばんば』(雪虫)と言うだけで読んだような気がする。舞台は伊豆の湯ヶ島だった。私は『一寸法師』と呼んでいたが、ここでは『しろばんば』と呼んでいたんだと思った。雪虫と同時に見られるのが『皇帝ダリア』である。
我が家の『皇帝ダリア』は3~4メートルはあるだろうか....。道行く人が見上げて「凄く大きいね 奇麗だね」 と褒めてくれる。今頃になると沢山の蕾が次々と花を咲かせる。
蕾が全部咲き切らない内に霜にやられると枯れてしまうが、翌年には芽を出して元気よくスクスク成長する。
花を咲かせる頃には青竹のような立派な茎に成長する。
花の色はピンクがかった薄紫で他の色を見たことがない。毎日道路に落ちる花びらの掃除が日課になるが、青空をバックにそびえる大輪の『皇帝ダリア』は見る人に一瞬の安らぎを与えている気がする。
今年は新型コロナ感染が広がって、今は第3波ともいわれている。
患者数が毎日更新されている。『手洗い』『マスク』『消毒する』『三蜜を避ける』『会食も避ける』等と言われると息が詰まりそうだが、長い人生の中には多かれ少なかれ苦難はつきものだ。予防対策を守ってやり過ごすより他あるまい。
まもなくワクチンや薬も出来てくると思う。それまで頑張るしかない。
明るい社会とは言えないが『雪虫』と『皇帝ダリア』に癒されている。<Hー靖子>(vol.1506) -
今日は朝から良い天気で初冬の優しい日差しが心地よい。洗濯物を干しながら空を見上げる。秋の吸い込まれそうな真っ青な青空は、いつの間にか色褪せてぼんやりした青空になっていた。「もうすぐ冬が来るぞ」.......そう感じさせる空の色である。上空高く飛ぶ飛行機は2本の白い線を残しながら飛んで行った。日本列島を南下する紅葉は今が見頃である。今年は何処にも行かず、道端のハゼ(漆)の真っ赤な紅葉と、車の中から見た並木の街路樹の紅葉を見たに過ぎない。コロナのせいもあるが、遠出のできなくなった年齢になったのかな~。今『えのき氷』を作っている。ミキサーですりつぶしたエノキ茸の液体が鍋の縁まで入っている。これをとろ火で1時間近く煮詰める。気を緩めると焦げてしまうので、ブログ記事を書きながらちょくちょく鍋をかき混ぜている。この『えのき氷』は、糖尿病やコレステロールの改善に効果がある、と言われている。作り方は簡単で煮詰めて型に入れ冷凍した物を毎日の『みそ汁』に入れるだけである。健康に良いと聞けば、真似するだけの何の変哲もない日常である。このブログも来年2月いっぱいで終わりになるらしい。今迄、同級生の心の拠り所として繋がっていたが、無くなるという現実は実に寂しい。でもそれも世の中『無常』(常で無い)と言う事だろう......何事にも終わりがある。ブログも終わる潮時なのだろう。
まとまりのない文章になった。何を書きたかったのか自分でもまとまりがつかない......読む人は 誠にいい迷惑であろう。これも年のせいと言う事にしておこう。都合の悪いことは全部年のせいにできる。これはまさしく武器である 「年より万歳」「老人万歳」......まだまだ元気に生きられる。否が応でもお迎えは来るのだから......その時まで大いに人生楽しもうと思うこの頃である。【H・靖子】【写真:R2.11.14.朝の散歩で撮影 】写真上でクリックすると2段階で拡大します。
毎日の散歩道で、辺り一面野菜畑.....故郷を思い出しながら散歩を楽しんでいます。投稿して戴いた記事とは一致しない......あえて一致すると言えるのは『空の青さ』ぐらいカナ~?!
写真中央部の四角いネットは、毎週(2回は)通うゴルフ練習場で、右奥に霞んで見える山並みは三重県の『鈴鹿山脈』です。結構、静かで穏やかな環境で暮らしています。【M-K】(vol.1505) -
毎日の料理に欠かせないのが『包丁』である。
1年365日、飽きもせず、来る日も来る日も、時間になると食事の支度をする。
これが面倒と思うことはないが、少ないレパートリーの中から三度三度365日、何年も、何十年も、愚痴も言わず、料理をしてきたものだと自分で感心することがある。
「切れ味も味の内」とよく言われる。ならば包丁の切れ味だけでも良くしたい。
自分で研げれば楽しく料理が出来るかも知れない。
そんなことを考えながら道具捜しを始めた。
勿論ネットで......何種類かの研ぎ具合を比較したページがあった。
私が購入を考えていたテレビコマーシャルの包丁研ぎもあったが、テストの結果は100円ショップで売っている普通の砥石が一番だった。
家には砥石が揃っている。それを使うことにした。『包丁研ぎ』は初めての挑戦である。一番大きくて滑らかな砥石で研いでみたが全然ダメ。
目が細かいほうが良いと思ったのは『仕上げ用』と書かれていた。
そこで困ったときのネット頼みで『包丁の研ぎ方』を検索する。
すると「砥石は使い分けること」と動画のオジさんが言っている。
刃物屋の由緒あるお店の何代目かの言う事だから間違いはないだろう.....。
「な~んだそうなのか」
砥石に『300』や『1000』と書かれているのは、目の粗さなのかと理解する。
先ず『300』番の砥石で研いでみる。
「力を脱いてゆっくり押して引く」を繰り返す。
勿論、角度は変えない。言われた通りにやってみる。
オジさんが言うような「バリ(まくれ)」がなかなか出ない。
それでもめげずに、ユックリしたり激しく動かしたり色々やってみる。
しかし「バリ」は出てこない。
何時もの私ならとうに諦めて夫に助けを乞う所であるが、今回は何としても自分でやってみるつもり。
焦らず気長に研ぐことにした。午前中から午後にかけて押したり引いたりを繰り返した。
力仕事ではないので苦にならない。むしろ楽しんでいる。
そして何時間か経った頃、やっとバリらしき感触を得た。
「おっ、これは行けるかもしれない」 大袈裟に言えば微かな希望の光が見えてきた。
そして今度は裏側の研ぎにかかるが表ほどのバリが出ない。
「も~これくらいで良いか」と見切りを付けて、仕上げの『1000』番砥石で仕上げた。
さて、何時間もかけて研いだ包丁の出来栄えはどうだろう。
試し切りは動画でやっていたように新聞紙を切ってみた。
「お~~切れたぁ」 研ぐ前に新聞紙を切った時は、刃が当たりもしなかったのに スーっと切れる。
思わず「ヤッター」と叫びたい気持ちである。
すかさず、傍にあった白ネギを切る....「おっ?」「凄い」 吸い付くように刃が白ネギを切っていく。
「おお~~凄~い」我ながら感心した。瞬く間に1本切れた。
「気持ちい~~い」吸い付くようにスッと刃が入る。
これが切れ味だ「切れ味の凄さ まさに快感・カ・イ・カ・ン・・」包丁の切れ味が良くわかる。
トマトも 幾らでも薄くスッと切れる。胡瓜も、玉ねぎも思い通りに切れる。
今までもこれくらいの切れ味は体験していたのに、自分で研いだ包丁は特別に良く切れると思えた。
「これから自分で研げる」と思うと病みつきになりそうだ。
何年振りかに味わう達成感であった。
たかが包丁を研ぐ位で大袈裟すぎるなんて笑われそうだが、私にとっては素晴らしい初体験だった。
時間が長くかかった割に疲れなかったのは、台所の流し台で研いだからかもしれない。
丁度お臍の当たりに置いたから、力が抜けて良かったのかな?と思っている。
これから料理が楽しくなりそうだ。
「切れ味」と言う秘密のレシピが加わったのだから..... 。
研ぎ上がった包丁を見てほくそ笑む私であった。【H・Y】
【写真】今年のゴールデンウイーク中の『知多中央自動車道路』。左側2車線は数年前に『名古屋同窓会』を開催した『ホテル松濤=内海海水浴場』や『セントレア=中部国際空港』方面へ、対向2車線は『名古屋高速自動車道&伊勢湾岸自動車道』へ繋がる中部地区の幹線道路である。
この時期は潮干狩りも最盛期で、例年この道路は『数珠繋ぎ』の大渋滞なのだが、今年はコロナウイルス対策の外出自粛でガラガラの状態が続いた。投稿記事にマッチする写真が見当たらないので.....ガマンして!!(2020.05.02 10:15 撮影=ブログ管理者)【M-K】(vol.1488)
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何年も前の新聞のコラム欄に『水草が増えて気付いたときには取り返しの付かない所まで来ていた』と言う架空の話が出ていました。
私の家の近くにある公園の池の水草がだんだん増えています。
それを見て昔読んだ先程の話を少し膨らませてみました。
ある所に大きな大きな湖があったそうな。それはとてつもなく大きくて向こう岸が見えないくらいの大きな湖だったと.....。
湖には沢山の魚がおってな人々は魚を獲り、陸では作物を作って皆豊かに暮らしておったそうな.....。
大きな湖は生きるための大切な宝の湖であった。
ところがある日一人の老人が大変な物を見つけてしまった。
湖に小さな一枚の水草が生まれてしまったそうな、人々は気付かなかったが老人は驚愕した。
その顔は血の気も引いて今にも倒れそうになった。
老人は若者に必死に頼んだそうな.....。
「あの水草を取ってくれ、大変な事になる」
「あの水草は時が経つと倍々に増えていくと言われている」
「水草が増えて湖が覆われたら湖は死んでしまう」
「頼む!小さいうちに取ってくれ!」と必死に頼んだ。
しかし若者は事の重大さには全く無関心で「はい、はい判りました」と軽く聞き流したんだと、それから間もなく老人は亡くなった。
1年経ち2年経っても湖は何も変わらなかった。
そのうち若者は約束をすっかり忘れてしまった。
小さな小さな水草だから大きな大きな湖では浮かんでいるただの水草と何も変わらない。
何年か経ったある日若者は「あれっ!」と気になった。
水草が大きく広がっている様な気がした。
「あれっ、此の前よりも大きくなった?」
そしてあれよあれよと思う間に次第に大きく広がっていった。
「また大きくなった」「また大きくなった」大きな大きな湖は日を追う毎に水草で覆われていった。
若者はハッと思い出した。
「此の水草は時期が来ると倍々に増えるんだ。だから取ってくれ!」
と老人に頼まれた事を.....
水草はたちまち大きな湖の四分の一まで広がっていった。
次に増えれば半分は覆われてしまう。
そしてその次は・・・あぁぁ~~~お終い。
*今日のネットニュースを見ると以下のような記事が載っていました。
【終末時計「残り100秒」 20秒進み史上最短】
https://www.asahi.com/articles/ASN1S20RNN1QUHBI013.html
異常気象による大規模山火事や氷河の崩壊。日本でも雪の降らない北海道や東北のニュース。
それに伴い冬野菜が早く育ちすぎて豊作貧乏になっている農家など、身近な問題も大変です。【黄昏】
~・~・< お待たせしました >・~・~
ご存じの通り1月25日早朝(3時頃)から、忍者ブログに不具合が発生してブロブの読み書きができなくなり、同級生の皆様には大変ご迷惑をおかけしました。
忍者ブログ関係者の緊急対応により、3~4日前からブログ記事の表示(閲覧)だけは可能になりましたが、新しいブログ記事を記載するなどの『更新』はできませんでした。
今朝(2月3日)から忍者ブログの不具合もすべて解消されて、10日振りにブログの更新が可能になりましたので、不具合が発生する前日の夜(1月24日)に投稿して貰っていた、同級生『黄昏さん』からの記事をようやく載せることができました。
【写真】ブログ記事にマッチする写真がありませんので、『イッシー』や『大ウナギ』で有名な鹿児島県指宿市の『池田湖』にしました。【2008.04.15 撮影:M-K】(vol.1482)